「我が義経」京の生きざまに参加して 中山 隆夫
日本人には判官びいき(第三者が弱者や敗者に同情する感情)をする人が多い。アカデミー歴史散歩で、検非違使尉(けびいしじょう)すなわち判官(律令制で各役所の第三位にあたる官名)であった源 義経が不遇の英雄としてわずか三十一歳の生涯を終えた生きざまを偲ぶ一助に彼と彼の父母、周辺の人物について調べてみたことを述べ、諸氏のご参考にしたい。
父親ー第五十六代の清和天皇から10代の後胤、源 義朝の三十六歳のときの九男で、九郎義経という。三男に熱田大神宮大宮司藤原季範の娘であった正妻が生んだ頼朝がいる。平治の乱(1159年12月。1156年の保元の乱で後白河天皇側について平清盛と共に戦って崇徳上皇側を破った義朝が保元の戦いで抜群の活躍をしながら清盛にくらべて恩賞が少ないという不満をもっていることを知った後白河の側近の藤原信頼(27歳)が、保元新体制の立役者であり後白河を支える貴族の筆頭の信西(しんぜい)入道や清盛の威勢に不満を抱き、義朝を誘い込んでこの2人を排除すべく清盛が熊野詣にでている隙をねらって起こした乱)で、信西入道は追いつめられて自害したが、急遽帰京した清盛との戦闘に破れて信頼は処刑され、義朝は東国に落ち延びる途中尾張の国で荘司長田忠致を頼ったが、入浴中に謀殺され「せめて木太刀なりとも有りせば」と言葉を残して死亡(37歳)。長男義平は父義朝の命令で兵を集めるため越前まで出向いていたが、父が討たれたと聞いて清盛を暗殺すべく京へ戻ったところ捕らえられ、六条河原で斬首される(20歳)。次男朝長は父と共に敗走中、甲斐・信濃 の源氏に出兵を促す命令を受け、出発したが途中山賊の弓矢で重傷し死亡(16歳)。三男頼朝(14歳)は父に従って逃走中捕らえられ、伊豆蛭島ガ島に流された。のち、伊豆の豪族北条時政の娘、政子と結婚し、時政の協力によって兵をあげた。
母親ー九条院(近衛天皇の中宮 藤原 呈子)に雑仕女(ぞうしめ)として仕えていた常盤。九条院は美人が好きで京都中から 千人の美女をえらび、その中から百人をえらび、百人から十人をえらび、十人から一人をえらんだとき最後の一人が常盤だった。唐の玄宗皇帝の寵妃、楊貴妃も及びそうにもないほどの美貌の持ち主で義朝に見染められ愛妾となり、今若・乙若・牛若(義経)の三人を生んだ。平治の乱で義朝が東国へ敗走(十二月二十七日)中、翌年(一月七日)常盤は七歳の今若、五歳の乙若を連れ乳児の牛若を懐に抱いて、寒い雪の中を大和国宇陀郡の知人を尋ねて行ったが、京に住む老母が捕えられ自分達の行方を吐かすため厳しい折檻を受けていることを聞いて、老母を助けるべく三人の子供を連れて京にもどり自首して出た。常盤は自分の命に代えても子供を助けてほしいと嘆願した。清盛は常盤の美貌に心を動かし希望を叶える代償に常盤を望んだ。常盤は苦渋のすえ清盛の愛を受け入れ、女児を生み今若、乙若はすぐに寺にあずけ僧にした。牛若は四歳まで手元に置いたあと山科にいる旧家臣に預けた。
このように平治の乱で源 義朝が敗者となって死んだあげく子供達も巻き添えになった。かたや勝者となった平 清盛はやがて太政大臣となり、平家一族栄耀栄華を極めたが「奢る平家久しからず」で常盤の美貌に迷った結果、彼女の息子義経に仇をとられ滅亡する。
《男女で成り立つ人間社会、昔も今も以って銘すべきことである》
義経ー七歳になった牛若を兄たちと同様、僧にしようと考えた母親常盤が東光坊阿闍梨のいる鞍馬寺に預けた。優れた男児の牛若は昼夜を問わず一生懸命学問に励んだので、師の東光坊阿闍梨は比叡山、延暦寺、三井寺にもこのような優れた稚児はいないと誉めた。
十五歳になったとき、鞍馬寺を訪れた旧家臣鎌田正近(父義朝の乳兄弟である鎌田正清の息子で義経より十歳年長)により平家打倒を勧められ、貴船の僧正ガ谷で人目をさけて毎晩武術の練習に励んだ。そして名も牛若丸から遮那王に変えた。翌年十六の時、鞍馬の多聞天に参詣にきた金売り吉次と出会い、吉次に奥州ゆきを勧められ、源氏の若君をひとりお迎えし、二人の子を出羽・陸奥の領主にして若君にお仕えさせ自分は若君の参謀となって天下を睥睨したいといっている藤原秀衡と対面すべく奥州ゆきを決め、吉次一行と共に旅立った。鏡の宿で強盗襲撃を退治したあと熱田神宮(先代の宮司が父の岳父)で元服し、祖父為義、父義朝、兄義平の名をとって九郎義経と改名した。十七歳で一度、京へ戻り鬼一法眼の娘と恋に落ち、その手引きで法眼秘蔵の中国の兵書「六韜三略」を三ヶ月で読破暗記する。六月十七日弁慶が千本目の太刀を奪うべく五条の天神に赴く。夜明け方堀川通りに出て義経と出会うが翻弄され、翌日清水寺で再会し決闘して弁慶が降参、臣下となる。義経は平泉の藤原秀衡のもとに帰る。二十二歳の夏、兄頼朝(三十四歳)の挙兵を聞き、奥州から馳せ参じ頼朝に対面する。二十七歳の二月~三月屋島、壇ノ浦の戦いで平家を滅亡させる。梶原景時の讒言により、頼朝が義経に反感を持ちはじめ、ついに衣河の合戦で義経とその妻子、弁慶以下の郎党みな死す(義経三十一歳)