十二月の歴史散歩の会「谷崎潤一郎の阪神」に参加して、文豪谷崎に生涯三人の妻があったことを知り、それらの女性が結婚した経緯や離婚した事情などを知りたいと思っていたところ、大阪船場道修町生まれの文筆家三島祐一氏(S3年生)の著書「谷崎潤一郎と大阪」(平成15年11月発行)に詳述されているのを発見、その一部を紹介し会員諸氏のご参考に供したい。なお、前記の著書は谷崎とその作品についても分かり易く著述されているので関心ある方は是非ともご一読をお薦めします。
① 石川千代との結婚
谷崎は姉の初に求婚したが、初にはすでに旦那があったので初からすぐ下の妹 千代を勧められ、姉と同様な性格であろうと結婚した(大正4年谷崎29)。ところが、姉と正反対の性格で谷崎好みの女性でなかったという。
しかし、彼女は貞淑で従順な女性であり、丹毒を患っていた谷崎の母の看病やそのあと父の面倒をみた。その留守中、彼女の妹せい子が谷崎と暮らすのを信頼し、谷崎はせい子が結婚できなかった姉初と同じタイプであるのに気付く。
そんな夫婦の不仲を谷崎家に出入りしていた佐藤 春夫が千代に同情する(谷崎はしばしば千代に暴力を振るった)と共に恋に陥り、昭和5年8月有名な細君譲渡事件(谷崎が妻千代を佐藤 春夫に譲るという声明書を出して離婚)が起こった。
当時は世間の非難が甚だしく、千代の不倫と糾弾され、娘の鮎子は女学校を退学させられ、谷崎は妻を物品のごとく譲渡した。甚だしくは細君を交換したと誤解された(佐藤春夫は当時、妻は無かった)。しかし、この前に小田原事件というのがある。
それは大正8年に小田原に転居した谷崎が大正10年に千代夫人を佐藤に譲ると言っておきながら、千代の妹せい子(痴人の愛のモデル)と一緒になれないと分かると谷崎が前言を翻したため、春夫が怒って谷崎と絶交したことがあり、谷崎は恋を知って急に生き生きしだした千代を見て手放すのが惜しくなったといわれている。
大正12年(1923年)9月1日に関東大震災が発生。谷崎家は一家をあげて関西に移住した。(谷崎37歳)
②古川 丁未子(とみこ)との結婚
丁未子は昭和4年、大阪府立女専(現 大阪府立大学)卒業直前に谷崎の秘書が結婚するのでその後任選びに同級生らと谷崎に会った。
あいにく秘書役になれず、彼女は翌年8月文芸春秋社に入り「婦人サロン」の記者を務めていたとき、12月に上京して来た谷崎と会い、さらに翌6年1月に再度上京してきた谷崎から婚意を打ち明けられ、後日に求婚の手紙(H6年中央公論から公表)を受け取り二人で鳥取の丁未子の両親を訪ね、結婚の許しを得て同棲に入る。4月24日二人は正式に挙式を済ました。(谷崎45歳)
(しかし、約束通りの入籍をしていないことが離婚の際、判明)
妻を連れて高野山で執筆活動をしていた谷崎は11月11日に夙川の根津別荘の別棟に入った。
翌7年2月に魚崎町横屋に転居。さらに3月には旦那の浮気で別居中の根津松子が住む同町の垣根越しに往来できる隣家へ引っ越した。
松子の言によると呼ばれるままに谷崎家へ行った所、谷崎は両手をついて松子にお慕いしておりますと愛を告白し、9月には求愛の手紙(H6年中央公論から公表)を出している。そして「改造」に『蘆刈』を発表すると12月には丁未子と別居、翌8年5月に正式に離婚が成立する。丁未子との結婚は『蘆刈』を書くための方便だったのかと疑問視されている。離婚した彼女は元の社に戻り鷲尾洋三と再婚、夫は出版局長、総務部局長を経て専務取締役となり、丁未子は昭和44年60歳で死去。
③根津 松子との結婚
松子は木綿問屋で大阪一を誇る豪商根津商店の御寮人(ごりよん)さんだった。
昭和2年3月「改造」の講演会のため来阪した芥川 龍之介を訪ねて来た松子(24歳、一児の母)の席に居あわせた谷崎(41歳)が一目ぼれした。しかし、関東大震災で関西に逃れてきた一介の文士の手に届く女性ではないと思っていた。
一方、当主根津 清太郎は商売を顧みず、画家や役者や芸人のパトロンになって散財したので次第に傾いてゆき、さらに昭和4年2月松子が娘恵美子を生む産褥中、夫が松子の末の妹信子と駆け落ちをする。
その年の晩秋、谷崎と懇意で根津清太郎とも知己である画伯樋口 富麻呂が印度から帰国した際、出迎えた松子から谷崎と結婚したい旨、相談を受けている。当時、谷崎家と根津家は地唄舞いの稽古を通じて親交を重ねており、松子は谷崎と千代との不仲を知っていたと考えられる。
翌5年8月谷崎が千代婦人を佐藤春夫に譲る(①の前述)ことになるが、その下地はすでに9年前の大正10年にできていた。
昭和9年3月14日芦屋市宮川町の詩人宮田砕花の旧居で谷崎は松子と同棲する。翌4月松子は根津から森田姓に復帰。
翌10年1月28日谷崎は初めて会って一目ぼれをした日から8年の恋が叶い森田松子と結婚する。(谷崎49歳、松子32歳)翌11年11月には東灘区の倚松庵に移り7年間住んでいる(関西在住21年間に18回転居)。谷崎は松子に僕のように献身的に接し、客より先にお初を箸でとって松子によそったり風邪をひいている客に家内に移さないで下さいといって客に不快な思いをさせたり、松子の後ろに回って帯を結び前に回って履物を揃える。客がいても頓着なしというのだが谷崎ともあろう人がそうでもしないと春琴抄の人物造形ができなかったのかと不審に思うと著者は述べている。また、後年松子に谷崎の子が宿ったとき「芸術的な家庭は崩れ、私の創作熱は衰え何も書けなくなる」と言って妊娠5ヶ月の松子を中絶させてしまうことがあった。
昭和13年の阪神大水害を体験し、17年に著名な『細雪』の執筆を始め、多くの作品を残して昭和40年(1965年)79歳で死去した。 芦屋市にある谷崎 潤一郎記念館には左京区下鴨にある谷崎が住んだ潺湲亭(せんかん=水がさらさら流れるさま、その音)の庭園が模して造られている。文豪を偲びつつ、池の鯉を見ながら散策するのも一興であろう。
*「谷崎 潤一郎と大阪」三島 佑一著 和泉書院発行(2300円)