百舌鳥古墳群見学記  佐川 克弘

06年3月4日筆者は「大阪シティアカデミー歴史散歩」に参加し、百舌鳥古墳群を見学する機会を得た。講師の下村さんが準備してくれた膨大な資料には下見の際撮影した写真や新聞のコピーなども含まれていて、とても“一夜漬け”では準備できるものでないことがわかり、下村さんに敬服するとともに深謝する次第である。

1)百舌鳥古墳群の現状

百舌鳥古墳群は堺市東北部の台地上にあり、東側約8kmにある古市古墳群とともに日本を代表する古墳群だ。その造営は、4世紀末から5世紀の初め(古墳時代中期初頭)に始まり、6世紀の後半頃(古墳時代後期後半)まで続き、その間に100基を越える古墳が築かれたという。百舌鳥古墳群には墳丘の長さが150m以上の大型前方後円墳が八基もあり、乳岡古墳→ミサンザイ古墳・大塚山古墳→大山古墳・御廟山古墳・いたすけ古墳→田出井山古墳・ニサンザイ古墳の順に築かれたと考えられている。
なお大山古墳は仁徳陵、ミサンザイは履中陵、田出井山は反正陵とされているが、現在の陵墓比定には多くの異論がある。百舌鳥古墳群には、現在、半壊状態のものを含め47基の古墳がある。
内訳は、前方後円23基、円墳19基、方墳5基だが、元は100基以上の古墳があったので、半分以上が失われたことになる。中でも大塚山古墳は、戦後破壊された最大の前方後円墳で、古墳の跡地には府営住宅が並んでいる。不幸中の幸いは、土木機械のない頃だったので、数年間の破壊に併行して発掘調査が行われ、高野槙製の木棺・銅鏡・玉・鉄製武器のほか、漆を塗った竹櫛・鍛治道具・鋸・斧・などが出土したという。いづれにしても近年の急激な都市化によって百舌鳥古墳群の復元は永久に不可能になってしまう危機的な状態にある。世界に誇る百舌鳥古墳群のこれ以上の破壊を許さず、後世に伝えて行きたいものである。

2)「5世紀型古墳」と大山古墳

森浩一氏は百舌鳥古墳群の古墳を、古市古墳群の古墳とともに「5世紀型古墳」と名づけている。
それでは「5世紀型古墳」の特徴は何か。3世紀末頃から西日本各地に出現した前方後円墳の特徴は、箸墓古墳に代表され、その大半が奈良盆地の東南部、つまり「ヤマト」に集中している。そしてそれは、弥生時代の地域性が失われ画一的となり副葬品の組み合わせや配置が共通(頭部付近に2~3面の鏡、棺の外回りに三角縁神獣鏡、鉄剣や鉄刀など)であった。副葬品には鉄製農・工・漁具もある。このことは前期古墳の主たちが司祭者であるとともに、軍事面での指揮者であり、自ら武人であり、また生産面での技術者でもあっただろう。対する「5世紀型古墳」は主な造営地が奈良盆地東南部から、河内(古市古墳群)~和泉(百舌鳥古墳群)に移転し、被葬者の武人的性格が濃厚になり、前期古墳に見られなかった馬具や甲冑が加わり鉄製の武器類の埋蔵数が大量化する。このように武器中心の副葬品を持つ古墳を「5世紀型古墳」と森氏は呼んでいる。大山古墳は、森氏のいう「5世紀型古墳」の一つであり、日本最大の前方後円墳だ。墳丘の全長は486m、後円部径約249m、高さ約35m、前方部約305m、高さ約33mの規模で、3段に築成されている。全周2.7kmの周遊路が整備されているが一周するのに約1時間もかかった。日本最大の前方後円墳にふさわしく、陪塚と考えられる古墳として樋の谷古墳・茶山古墳・大安寺山古墳・源右衛門山古墳・狐山古墳・銅亀山古墳・塚廻古墳・収塚古墳など10基以上あるが、塚廻古墳を除いて主体部の構造や副葬品のわかっている古墳はほとんどないという。大林組のプロジェクトチームが1985年に行った、大山古墳の建設にかかる工期と工費について興味深い試算がある。
それによれば、今、これを古代の工法で造営するとすれば、一日当たりピーク時で2000人、延べ680万7000人を動員して、15年8ヶ月の工期と796億円の工費を要するという。なおこの試算は二重目までの周濠までで(実際には三重)、埴輪作りの作業員や工費は除外されているから、実際にはさらに多くの労働力と工費を要することになる。このようにとてつもなく巨大な墓が、基本的には一人の被葬者のために営まれたのである。1872(明治5)年に前方部で竪穴式石室に収めた長持形石棺が露出し、刀剣・甲冑などが発見された。それから年代を割り出すと、現在履中陵に指定されているミサンザイ古墳の陪塚=七観山古墳から出土した甲冑や武器類のほうが古そうだという意見がある。仁徳と履中の関係は父と子であるから、天皇陵の指定が逆ではないかとの疑問が出てくる。
しかし古墳本来の被葬者は後円部に埋葬されているはずで、1872年に発見された前方部への埋葬が本来の埋葬よりもかなり遅れている可能性も否定できない。要は大山古墳よりも、ミサンザイ古墳も被葬者はだれかわからないのである。
なお1872年武具とともにペルシャ製のガラス壷やガラス皿が出土したという。
中国を経由して5世紀に、はるばる日本にもたらされたことに驚嘆するほかない。

3)天皇陵と考古学

森浩一氏は天皇陵に関して

①現在の墳形や濠の有無で元の状態と見なすのは危険で
②古代学的に今日の指定通りでよいと考えられるのは、応神陵、天智陵、天武・持統陵である。この場合も天智陵は築造年代が、応神陵についてはその人物の実在性の検討がいる。
③奈良県と大阪府にある古墳群の時代的推移をたどり、それを記紀などと照合すると、個々の陵の所在地はともかくとして、陵の含まれている古墳群の推移を把握することは可能である。
④江戸時代から明治時代の天皇陵の指定は、考古学の発達以前におこなわれたため、今日の学問水準では、天皇陵として、より妥当な古墳を指摘できる。たとえば大阪府高槻市今城塚の継体陵、奈良県桜井市赤坂天王山の崇峻陵、見瀬丸山の欽明陵、奈良県明日香村中尾山古墳の文武陵などである。

と述べている。上記以外は、疑問があるか、そうでなくても積極的に正しさを証明する手段が欠けているという。
なお森氏が①で指摘している背景には幕末における陵墓の修築事業がある。当時幕府は、尊王攘夷運動の融和策として陵墓の修築を実行した。その修築の際、濠がなかった所に新しく濠を掘削したり、双円墳を前方後円墳に改めるなどと、幕末の学者の陵墓観によって著しく墳形が変更された例が「山陵図」(現在宮内庁に保管)で分かるからだ。
傾聴すべき指摘だと思う。

以上

(あとがき)
H9年7月17日付「読売新聞」(下村さんの提供資料)によれば、森浩一氏は、大山古墳の出土品と、韓国・武寧王陵(523年)出土の副葬品との比較検討の結果、同古墳の被葬者の有力候補を倭王「済」つまり允恭天皇と発表した。

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