3月例会は全国で15番目の政令指定都市となった堺市の約4㎞四方の中に46基が現存する百舌鳥古墳群の散策だった。なかでも世界三大墳墓(エジプトのクフ王のピラミッド、中国の奏の始皇帝陵)の一つで日本最大の前方後円墳である仁徳天皇陵周辺を歩いた時は写真や図絵で見ていた以上に大きいのにびっくりした。南海高野線の堺東駅近くにある反正天皇(父が仁徳天皇)陵やそばにある鈴山古墳、天王古墳の陪塚(ばいちょう)を見てけやき通りを歩き、永山古墳・丸保山古墳といった仁徳陵の陪塚を見つつ、愈々仁徳天皇陵の後円部から前方部正面までの約1.3㎞の舗装された道を三重の濠の外側に沿って黙々と歩きながら正面口がまだかまだかと思いつつ規模の大きさを実感した。このような途轍もない大きな墳墓を完成させるには一日に千人の労働者(農民)が手作業で従事しておよそ4~5年はかかると現代の土木業者は試算する。
五世紀前半の第十六代仁徳天皇は『日本書紀』によると応神天皇(仲哀天皇の第四子で、神功皇后が新羅征伐のおり筑紫で生まれた)の第四子で即位すると都を難波高津宮(大阪市中央区)に移した。宮はいたって簡素で殿舎は何の飾り気もなかったという。民衆に労苦をかけず生活の充実を願っての措置だった。即位して四年目の春、天皇が高殿に登って周囲を眺めるとどの人家からも煙が上がっていない。人々は貧しさのために炊煙を上げることができないのかと考えた天皇は民衆の窮乏を憂い、以後三年間にわたり課税を止める詔(みことのり)を出した。宮中でも天皇は質素倹約を励行し食物もいたって粗末なものに甘んじた。宮殿の垣根は荒れ放題、屋根の茅葺き替えもせず雨漏りにも耐え、星の光が見えたという。
こうした天皇の仁政がまもなく功を奏し、五穀豊穣で民衆の生活は活気を取り戻し、次第に炊煙が立ち上がった。諸国から課税の免除三年も過ぎたからと宮殿の改修を進めるべきだと声が立ち上がったが天皇はなかなか許さず、課役をゆるしたのはさらに三年後。人々は促されることなく、老いも若きも力を合せて宮殿の修築に労を惜しまなかった。こういった善政があったればこそ、日本一といわれる仁徳天皇の御陵ができあがったのだと思われる。古来、聖王の時代には民衆が君の徳を讃え、そこかしこに歓喜の声が満ちあふれるという。日本といわずどこの国でも斯くありたいもの。しかし、およそ百年後、大化の改新の翌年(646年)に薄葬令が出され古墳の築造を制限し、葬送の簡素化をはかり、身分により墓の規模や役夫の数、築造にかかる日数などを定めた。また殉死や馬の殉葬、宝物の副葬も禁じた(後世の墳墓が仁徳陵を真似て民衆が疲労困憊するのを改善するための法令)。552年の仏教伝来以後、寺が増え仏教が定着すると古墳時代は終末をむかえる。
仁徳天皇には聖帝の顔と艶聞に満ちた顔がある。皇后との間に履中天皇、反正天皇、允恭天皇となる三皇子をもったが、仁徳天皇二十二年のとき、天皇は八田皇女を見初めて妃として召し入れようとしたが、皇后の強烈な反対にあった。同三十年、皇后が紀伊国へ出かけた隙に八田皇女を宮中に召し入れた。それを知った皇后は激怒し山城国へ居所を移した。天皇は家臣を遣わして説得したが、皇后は翻意せず山城で薨去した。同三十八年、天皇は八田皇女を皇后としたが今度は皇后の妹にあたる雌鳥皇女に心惹かれた。雌鳥皇女を妃に迎えるべく異母弟の隼別皇子を遣わしたが天皇によい感情を持たない雌鳥皇女はこれを拒絶し、使いの隼別皇子と結ばれてしまう。そして「鷦鷯(さざき)[天皇の皇子名が大鷦鷯尊]よりも「隼」が優れているといった歌を作ったことで天皇の逆鱗にふれ、二人に討っ手が差し向けられた。
※葬制(人の死後、その死体を処置する方法);人は生まれて必ず死ぬものであり、その処置の方法については避けて通れない事象である。
現代の火葬導入前は『埋葬』と沿岸部および奄美・琉球地区における『崖葬』に大別される。また、採集・狩猟・漁労の縄文時代の死体姿勢は屈葬が支配的で、農耕が進んだ弥生時代は下股をゆるく曲げた姿勢に変わり、次の古墳時代は伸展葬が支配的となる。奈良時代になって仏教が定着すると火葬が導入され、僧道昭の弟子たちが師の遺教を奉じて遺骸を火葬にした(700年)のが始まりで、天皇の火葬は持統女帝を遺詔により飛鳥崗に火葬(703年)にしたのが始まり。以後、貴族や浄土真宗の信徒間に広まっていった。しかし儒教では火葬を孝にそむき、礼を失するものと非難し儒教が武士階級に広まると火葬は人情に反する残虐な風習だとしていたが、明治以降人口増に伴い都市から次第に農村へと火葬が浸透していった。火葬には多くの燃料を要するので、死体を鳥に処理させ(天国へ霊を旅たたせる?)る鳥葬がチベットやモンゴルで行われている。
仁徳天皇陵の前方部(正面入り口)の道路をはさんだ一帯が大仙公園で子供連れの家族が多く、ここで昼食をとり、公園内にある日本庭園や米軍の空襲爆撃で亡くなった市民の霊を弔う平和塔や堺市博物館を見学した。
午後の散策は仁徳天皇を父とする履中天皇陵を訪ねた後JR 阪和線に沿って北上し、踏切を渡り「いたすけ古墳や御廟山古墳」を見て解散した。
《参考》
15代応神天皇(仁徳天皇の父);在位期間23年。百十歳(古事記では百三十歳)で崩御。
御陵は羽曳野市にあり、仁徳天皇陵と並んで最大級の前方後円墳。
16代仁徳天皇;在位期間22年。応神天皇の第四子。八十三歳(古事記)で崩御。
17代履中天皇;仁徳天皇の子で在位期間6年(3年という説あり)で崩御。
18代反生天皇;仁徳天皇の子で在位期間5年で崩御(六十歳)。
以上三天皇父子の御陵は堺市にある。
19代允恭天皇;仁徳天皇の子で在位期間42年で崩御。御陵は藤井寺市。